『僕たちの心の痛み』ビダンの独り言〜vol.3

 頭を捻り過ぎると頭痛がする。
冬眠する獣のように眠り、社会人を全うするために疑問なく起きる。機能の一部となりて、役割に徹する。夜にはまた巣に帰り、酔っぱらって朝を待つ。人間という動物の不思議な習性は未だ不可解だ。一生懸命に働いているようで、実は無関心無思考に陥っているだけ。僕たちは”意味ある生”を見落としているのではないか。

「そんなことではいけない。私たちは私たちの主体性を取り戻さなければならない。女性の安心安全な性体験を守るためには私たちは清廉潔白でいなければならない。そのために私たちは一生懸命になって仕事に打ち込まなければならないのだ。私たちの肩には女性の未来が乗っかっている。」

しかし上記のような論議はあまりにもチープだ。訴求先に承認されるための技法。同じ中身を違う人間が発信する粗暴な慣習に過ぎない。

 僕は頭を捻り過ぎると頭痛がするのだ。
ややこしい「べき論」に身を投じて、何かを言った気になっているその姿勢がそもそも無思考的であるし、主体性を軽んじているじゃないか。純然たる姿勢で生きていらっしゃる世間様から見れば僕の生活は確かな堕落の中にあるが、だからどうしたというのだ。

皆様の知らぬところで肌は見せられる。そういう場所でしか出会えない体験はいつだって秘め事である。夜の営みは人様に理解されるような形をしてはいない。僕は性愛でのみ出会える隔離された瞬間や体験に没頭する。例え誰にも理解されなくとも、この仕事をしていると何とも言えないような場面に遭遇することがある。孤独の刹那。極限まで理屈を脱いだ人間の裸との対峙。

そうした時間を共有する時、言葉は到底追いつけない。二人の世界に没入すればするほど、もどかしいほどに言葉は意味を持たない。目の前にいる女性が瞳を濡らし、濡らした目が複雑な感情の渦を伴って僕を見つめてくるあの瞬間。

瞳の奥に映る孤独や恋慕や疑念や愛情といった人間の持つ感情の複合が僕の胸を打ち、穿たれた僕の胸の穴に切なさを植える。

言葉になる前の感情の渦が僕の心を触り、罪悪感や矛盾に満ちた欺瞞を貫いてくる。潰れた心は沈黙し、静かな無力感だけが残る。懺悔するような気持ちで体温に溺れ、静寂の中に没入していく。

性愛とはかくも痛く、苦しく、それゆれに甘美であり享楽に相応しい。そこには確かな痛みがあって、痛むゆえに生を実感し喜びを享受できる。まるで生きていることを確かめ合うように。そうでなければ、恥部の痛む理由がない。

 対峙した孤独をダシにして物を書く僕の姿勢は決して優しくない。しかし、どうにも書かずにはいられない。そういった美しさを孕む夜を幾度となく超えてきた。そして超えるたびに、美に相応しくない自分の滑稽さが際立っていく。そこで僕は諦めながらも葛藤する。場違いな切なさとそれを稼業に選んでいる自分の奇妙さ。性愛を”サービス”の枠組みに無理やりねじ込んだ歪な感情への違和感。それらを内包し、そのうえで笑うのがこの仕事だ。

この堕落した生活を支えるのは、女性の恋慕と僕の軽薄さであることに疑いはない。金がかかるだけのつまらない男だったと忘れられることに心は痛まない。軽薄な僕の瞳が彼女たちにどう映っていたのかは知る由もない。自分に酔うために女をダシにする”痛い奴”であると評してもいいだろう。情緒的な意味でも、僕の生活は支えられているのだから。

他方で女性用風俗セラピストかくあるべしにはイマイチ乗っかる気にはなれない。例えば「女性に優しく誠実であるべき」とか「セラピストだったら怒ってはいけない」とかのラベリングは全く意味をなしていない。

それらは情緒的なやり取りに制限を設け、感受出来る享楽を妨げてしまう。自分の中で芽生えたどうしようもない感情を無視するのと同義だ。それら感情の抑制を美徳とし、合理の中に無理やり当てはめて「それが出来ない奴は馬鹿だ」と見下すような品の無さに、僕は疲れ果てている。

 しかし何も制限のない対峙は、時に耐え難い痛みを伴う。喪失であったり、本気になってしまった滑稽さであったりと形は様々だ。所詮性風俗。金によって繋がり、縁の切れ目はなんとやら。そこにどんな情緒があったとて、後ろめたさは無視できない。

我々の持つ感情は正当化出来ない。享楽の美しさと相反する金の関係性。そうした矛盾を僕たちは超えることは出来ない。セラピストがどんなに言葉を駆使しても、金の入った封筒の重みには耐えらえれない。我々の態度の裏の欺瞞と罪悪は拭えないのだ。

だからすぐに価値の話になる。値段に見合ったサービスなどと口にする。存在を定義付けして言葉に起こしたがるのは、単にアイデンティティを喪失していることの証明ではないだろうか。存在価値を示し合わせなければならないほどに、キャストの自信はすでに失われていると言ってもいい。それほど”売れる”再現性に乏しい業態であるのだ。

せめてサービスとしての価値を位置付けなければ承認を受け付けてもらえない。「女性のために」などの過度な喧伝はこうして形作られる。逆説的に言えばわかりやすい付加価値を見出せた人間のみが自らを純粋に正当化出来ることになる。(単に美形であるとか、手技に長けているとか、専門知識を持っているとか等々)

 ではそうしたわかりやすい付加価値でのみ、キャストは評価を受けるべきなのだろうか。果たして性愛や下心に関わる性風俗キャストがそんな単純な価値判断によって支えられていると思えるだろうか。

答えは間違いなくノーだ。彼女たちが必要とするのは”安心安全なサービス”なんかではない。必要なのは安心して接することが出来る相手だ。信頼出来る人間でなければ、彼女たちが働いた成果を我々に払うことはないし、理屈を脱ぎ捨てて触れ合うことも出来やしない。例えそれが痛みが伴うものであったとしても。それは技術に長けたセラピストの皆々様も重々承知の上のはずだ。

そういう意味において、喪失を経験するリスクは”安心安全なサービス”の範疇とされるものだろうか。これも恐らくノーであろう。”安心出来る相手”という存在は稀有だ。それが例え金の関係性であったとしても理屈を抜いた相手を失うことは恐ろしいし、傷は浅くならないと予測してしまう。これもまた我々の正当性を妨げる。

巷では喪失の恐怖を盾にして女性から金を巻き上げるようなことも往々にして起こる。「僕がこれだけやってあげてるんだから」と心理的負債を負わせて「支援」させるようなこともしばしば起こるとあっては「安心安全なサービス」が聞いて呆れる。

逆にキャスト側の罪悪感を利用して、「こういうサービスをしないと利用をやめる」といった強迫まがいも横行している。男女ともに下心が出てしまっては品性など役に立ちやしない。

 しかし僕は個々のこういったやり取りに対し、責任は求めない。責任の所在を明らかにすることが困難だからだ。事が起こった後にどちらか一方の意見に耳を傾ければ半ば無思考的に答えは導けるだろうが、密室の事象に真実なんてものを求めるのはいささか無理があるだろう。

さらに付け加えるなら、どういった文脈において被害を訴えているのかで状況判断は一変する。その女性が最初は自分から率先してお金を多く与えていたにも関わらず、望んだ態度をしてもらえなかったという被害感から、都合のいい部分を切り抜いて発信している可能性もある。女性が利用をやめるという強迫も、最初は「プライベートで沢山連絡してもいいよ」と言っていたセラピストがその態度を段々と雑にしていった結果、女性の不満が爆発したからなのかもしれない。

こうなってくると何が真実なのかは外野からは判別出来ないし、そんなものに時間を割けるほど女風ユーザーもセラピストも暇ではないだろう。単純な二項対立に当てはめた様々な”論争”が如何に不毛であるかを読者の皆様には確認していただきたい。

そもそも僕らは理屈や道理の上で仕事をしているわけではない。人間の下心や欲望を単純な計算式に落とし込めるほど僕たちは賢くない。営利目的に乗っ取って関係性を単純化し、お互いの感情に制限を設ければ問題はほとんど解決出来るかもしれないが、需要においてそれが全てではないことも証明されている。色恋営業であるとか違法となっている本番行為がなくならないことがいい例だ。

 サービスの満足度向上を掲げて作り上げた優しさと、恋愛感情としての優しさを切り分けて受け取ることはほぼ不可能だと言っていい。ヴァーチャルの体験と実際の体験を分けられない人間の脳が、人間の優しさを切り分けられるはずはないのだ。理屈と言葉はもはや役に立たない。では我々はいったい何を指標にこの下心と欲望の渦のなかで生きていけばいいのだろうか。

何かを言い得た気になっても、別の何かを取りこぼした気がする。そういう時に僕はいつもこの言葉思い出す。

「ものを考えるときは、笊(ざる)で水を掬うようにせよ。」という鎌倉時代の禅の偉い人、道元の言葉を詩人である吉増剛造さんが著作「詩とは何か」で言い表したものだ。

「普通でしたら逆ですよね。『笊で水を掬う』では、もう水が漏れてしまいます。しかし、その漏れていく水の音に耳を澄ませて、そのときを考えていくこと、すなわち、ものの役に立つとか目的があるとか、そうしたことを超えて、ベンヤミンの言う『純粋言語』のようなところに、あるいはそれを超えたところに向かって自分の心を間断なく据え直していく、そういうことが、やはり大事なようです。」

 僕はよく考える。悩み、葛藤する。ここまでくるとこれは単にそういう性質であると言っていい。しかし、肝心の性愛においては言葉は足りなくなる。論考とは程遠い場所で言葉を置き去りにする。「純粋言語」とはこの言葉にならない場において形成されているように感じる。言葉を置いていったところにこそ詩があるのだ。そしてこの詩的な感性の中に、この仕事のすべてが詰まっている気がしてならないのである。

正論を持ち込めば直ちにすべてが収まるほど、性愛や下心というものは簡単ではない。常に理不尽や欲望を出し合いながら、同時に優しさや思いやりも捧げあう。どちらが優位であるかを伺いながら、相手の心地よさに気を配る。そして互いが人間として生きていることを確認し、改札の前で別れを告げる。特別なようで日常の中であるような、激しいようで優しいような営みの1ページを記していく。あの人の言葉や瞳に宿したメッセージを思いながら帰路につく。

僕はこの不変の営みとしての性愛を、不変ではない社会の役回りに追われる皆様に感じてほしいのである。はっきり言って、マッチングアプリを使って相手をスペックという言葉で価値判断しながら行うセックスよりも、金を払い、”生産性”と”合理性”をかなぐり捨てて触れ合う歪な性愛のほうが、感情のやり取りにおいては幾ばくか健全であると保証出来る。そうした情緒のやり取りを、誰にも非難されない場で繰り広げる。その”場”のために、僕は報酬をいただいているのじゃないだろうかとさえ感じる。

 僕たちのやりとりは極めてアナログである。デジタルでは到底追いつけない場を密室で作り上げる。そして実はアナログのほうが人間の受け取れる情報量は多い。肌の質感、首筋の匂い、相手の舌の味。実存を確かめるには五感を伴った体験でなければならない。そうした体験がもたらすものは学びだ。相手の体から読み取れるもの。相手の声の空気から読み取れるもの。アナログレコードには、二進数で記録されるデータが削ぎ落した音と空気感が宿っている。画面上からは伝わらなかった思いは、同じ場で時間を共有して初めて現れる。

たかが性風俗が、学びだの体験だのとのたまうのは少々大げさかもしれない。しかし少なくとも僕は沢山のことを学んだし、心臓が飛び出そうな体験を幾つも乗り越えてきたことは確かのなのだ。人間の実存に関わる学びが僕の人生を豊かにしたことは間違いない。加えて言えば、痛みを伴わない学びはなかった。この痛みこそが、性愛に関わる人間が向き合わねばならない葛藤なのであり、生活を豊かにする体験なのである。それはユーザーもセラピストも同じなはずだ。

下心と欲望の渦の中、金の関係の罪悪感を抱え、恥部の痛む堕落した密室。その渦中にあって純粋言語のような詩的な感性と痛みを伴った学びの先に”生きていること”を確かめ合う。性風俗は営みである。この痛みも、葛藤も、享楽も、僕らを支える生活の中にある。もしよかったら、そうした構えを読者の皆様にもひとつ覚えてもらいたい。

簡単な言葉に起こせば「いろいろあったけど楽しかった!」と終わらせられるような体験をしてほしい。

セラピストの皆様にあってはそう思わせるような人間であってほしい。

 性風俗キャストの皆様、あなたがたは商品ではない。あなたがたは人間だ。その後ろめたさと葛藤は必ず宝になる。金のためだと割り切ったことも、それで誰かを泣かせたとしても。あなたがたは必ず罪悪感やそれからくる怒りを超えて必ず学べるものがあるはずだ。このような構えでもって、我々もこの人生を終えようというときに「いろいろあったけど楽しかった」と往生してやろうではないか。

 僕は頭を捻り過ぎると頭痛がする。冬眠する獣のように眠り、社会人を全うするために疑問なく起きる。機能の一部となりて、役割に徹する。夜にはまた巣に帰り、酔っ払って朝を待つ。人間という動物の不思議な習性は未だ不可解だ。一生懸命に働いているようで、実は無関心無思考に陥っているだけ。

 しかしそんな僕たちの生活の中にこそ、生きている実感や予想しえない体験が待っている。僕はそれらを綴り、それを読んだ誰かが生きていてくれるならばそれだけでいい。

この記事を書いた人

Bidan(ビダン)

Beauty&Beastの看板セラピストであり心理カウンセラーでもある人気セラピストBidan(ビダン)独自の世界観で活動する彼には女性だけでなく、セラピストからも支持される唯一無二のセラピスト。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

Share

コメント

コメント一覧 (1件)

  • 私も女風で多くの学び経験をさせてもらったなと感じております。ビダンさんの言葉にもどこかで支えてもらっている感覚があります。なぜこれだけコメント機能があるのかなと気になりましたが、いいねだけでは物足りず、コメントさせていただきました。次回のコラムも楽しみにしていますね。いつもありがとうございます。

コメントする

目次